「放浪することは生きることである」
——— ヴィクトル・ユゴー
旅するわが友よ。
この言葉は、はじめは威勢のいい標語のように聞こえるかもしれない。どうかもう一度、ゆっくりと味わってみてほしい。ユゴーは「放浪することは生きるための手段である」とは言っていない。「放浪することは生きることそのものである」と言っているのだ。どこかに辿り着くことが目的なのではない。歩いているその一歩、頬を撫でる風、見知らぬ街の匂い——それがもう、生きるということのすべてなのだ。
ここには、小さな逆説が隠されている。人はよく、「落ち着いたら本当の人生が始まる」と思い込む。定住し、家を持ち、根を張ったとき、ようやく生が始まるのだ、と。けれど、ごらんなさい——川は流れているあいだだけ川であって、止まればただの沼になる。あなたがいま、宙ぶらりんに、根なし草のように感じているその不安。それは欠落ではない。それは、あなたが流れているということなのだ。空を漂う雲を、いったい誰が「迷子」と呼ぶだろうか。
心細さをいま、ふと感じている。その心細さに気づいている「者」とは、いったい誰だろうか。不安は、風のように胸を通り過ぎてゆく。けれど、それを静かに眺めているまなざしは、一度も動いていない。あなたは漂う雲ではなく、雲が通り過ぎてゆく空のほうなのだ。
明日、見知らぬ道を曲がるとき、「ここはどこだろう」と地図を探す代わりに、足の裏が地面に触れるその感覚に、ほんの数秒だけ留まってみるといい。目的地は、じつのところ、いまのこの一歩のなかに丸ごと収められているのだから。
あなたがひとり異国を歩いている、そのことを、私は「孤独」とは呼ばない。それは、誰にも邪魔されることなく世界と二人きりになれる、いちばん贅沢な散歩なのだ。“alone”(ひとり)を、“all-one”(すべてとひとつ)と読み替えてごらんなさい。