自由か公正か:ノージック vs ロールズ、20世紀最大の哲学決闘
「税金は投資」── この一文にあなたはうなずくか、身構えるか。 答えの根っこは50年前ハーバードで隣人だった2人の哲学者にある。本稿では現代政治哲学の最大の対立軸であるノージック vs ロールズを解剖し、日本の再分配議論に接続する。自由と公正は両立しない。この事実を直視するところから政治的リテラシーは始まる。 舞台設定:1971年、ハーバードの隣り合う研究室 1971年、ハーバード大学の哲学部で2つの本が生まれかけていた。 1冊は既に完成し、出版された。ジョン・ロールズの『正義論(A Theory of Justice)』。もう1冊は、その本への強烈な反論として3年後に世に出る。ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア(Anarchy, State, and Utopia)』(1974)。 驚くべきことに、この2人は同じ哲学部の同僚だった。研究室が隣接していた時期もある。哲学史上最も激しい対立を生んだ2冊は、廊下を挟んで書かれたのである。 なぜこの時代、この場所で対立が生まれたか。 冷戦下のアメリカは、資本主義の道徳的正当性を証明する必要に迫られていた。ソ連型社会主義に対する優位を、単なる経済効率ではなく倫理的な正当性で語らねばならなかった。ロールズは「自由主義社会も公正でなければならない」と論じ、ノージックは「公正のために自由を奪うのは倒錯だ」と反論した。 現代のあらゆる再分配議論は、この2人の間で行き来している。日本の消費税議論も、ベーシックインカム論争も、相続税廃止論も、根本はここに帰着する。 ロールズの世界:「無知のヴェール」の思考実験 原初状態と無知のヴェール ロールズの中心的な思考実験がこれだ。 あなたが社会のルールを設計するとする。ただし条件が一つある。あなたは自分がその社会でどんな立場で生まれるかを知らない。 男か女か、若いか老いか 健康か障害を持つか 富裕層の子か貧困層の子か 才能があるか凡庸か どんな価値観・宗教観を持つか これらすべてを「無知のヴェール」の背後に置いた状態で、社会の基本ルールを選ぶとしたら、あなたはどんな社会を望むか? ロールズの答えは明快である。合理的な人間なら、最も不遇な立場に生まれた場合の生活水準を最大化するルールを選ぶ。自分が底辺に落ちる可能性がある以上、底辺の暮らしを保障する社会を望むはずだ。 これをマキシミン原則(最悪の場合の利得を最大化する)という。 二つの正義原理 ヴェールの背後で選ばれるのは、2つの正義原理である。 第一原理(自由原理):各人は、他者の同様の自由と両立する範囲で、最大限の基本的自由への平等な権利を持つ。 第二原理(格差原理):社会的・経済的な不平等は、次の2条件を満たす場合のみ許される。 (a) 最も不遇な人々の利益を最大化する (b) 公正な機会均等の下で、全員に開かれた地位と結びついている 第一原理は自由主義的だ。しかし第二原理の(a)が強烈である。不平等は最貧層の生活を改善する場合のみ許される。 例えば、CEOが高給を得ることが許されるのは、その高給によって企業が成長し、最低賃金労働者の生活が改善される場合に限る。CEOの給料が上がっても最貧層の生活が変わらないなら、その不平等は正当化されない。 ロールズの結論 ここから導かれるのは、強力な再分配国家の正当化である。累進課税、社会保障、公教育、医療保障──これらは「無知のヴェールの背後で全員が同意する」合理的選択として擁護される。 重要なのは、ロールズは「弱者への同情」で再分配を語らないことだ。合理的自己利益から再分配を導く。ここが革命的だった。慈善ではなく、自分自身のリスクヘッジとして再分配を選ぶ。 ロールズ以降、リベラリズムは「感情論」から「契約論」に進化した。この理論的武装が、戦後福祉国家の哲学的基盤になった。 ノージックの反論:「権原理論」の破壊力 『正義論』出版から3年後、ノージックは徹底的な反論を発表する。その核心は権原理論(Entitlement Theory)である。 権原理論の3つの構成要素 ノージックによれば、持ち物(保有物)の正義は3つの原理からなる。 取得の正義:無主物を最初に手に入れる時のルール 移転の正義:既に誰かのものを、別の誰かに移す時のルール(売買・贈与・相続) 匡正の正義:過去の不正を是正するルール この3つが満たされている限り、結果としてどんな分配が生じてもそれは正しい。誰かが1兆円持ち、誰かが1円しか持たなくても、その分配に至った過程が正当なら結果も正当である。 これはロールズと真逆の立場だ。ロールズは「結果の分配パターン」を正義の基準にする。ノージックは「過程の正当性」を基準にする。 ウィルト・チェンバレン論法 ノージックが提出した破壊的な思考実験がこれである。 仮に「完全に平等な社会」があるとする(ロールズ的パターン)。全員が同額の資産を持っている。 そこにNBAスター選手のウィルト・チェンバレンがいる。彼のプレーを見たいファンが1試合25セント、自発的に追加で払う。100万人が払えば、彼は25万ドル余分に稼ぐ。 さて、この社会はもう平等ではない。しかし、この不平等はどこで発生したか? 答え:全員が自発的に選んだ結果である。誰も強制されていない。誰も騙されていない。ファンは25セントを払う自由を行使し、チェンバレンはその対価を得る自由を行使しただけだ。 ノージックの結論はこうだ。「平等」を維持しようとすれば、この自発的取引を禁止するか、事後的に強制的に富を取り上げるしかない。しかしそれは自由への侵害である。 自由と平等(結果の平等)は両立しない。どちらかを選ばねばならない。そしてリバタリアンは自由を選ぶ。 「課税は強制労働と同型」テーゼ ノージックの最も物議を醸した主張がこれである。 所得税は、労働時間の一部を国家に強制的に奪われることと構造的に同じである。 年収の30%を税として取られる ≒ 週5日のうち1.5日は国家のために働かされる あなたが選択したわけでもない目的(他人への再分配、政府事業)のために労働する 労働の対価を、あなたの同意なしに国家が使途を決める 「強制労働」という言葉は挑発的だが、論理的な帰結として提示されている。自分の身体・時間・労働の対価は自分に帰属する(自己所有権)という前提を認めるなら、税制は原理的に問題含みになる。 ...