ノマド礼賛のブログは読んでいて楽しい。写真はきれいだし、自由そうで羨ましい。バリ島でラップトップを開いている写真、リスボンのカフェで仕事をしている写真。コメント欄には「憧れます」が並んでいたりする(ちと嫉妬)。

ただ、書かれていないことが結構ある。書かれていないというより、積極的に書かない、という感じに近い。コストを正直に書いたら読者が減るし、自分のライフスタイルを否定することにもなるから。それはそれで人間として自然な心理だと思うけど、読む側は差し引いて読んだほうがいい。

気がつけばバックパッカーからノマドへ移行し、それなりの年齢になった。そろそろノマド生活を終え、リタイアメントが近づいてきたこともあって、以下4つほどに整理して率直に書き出してみる。すべて自分にも当てはまることだが、なるべく客観的に落とし込んでみる。

人間関係は複利で育つ

10年同じ場所にいる人が持つ「腐れ縁」とか「いざというとき頼める人」というのは、時間をかけてじわじわ積み上がるものだ。移動し続けるとこれが原理的に貯まらない。

具体的に言うと、転職の口利き、困ったときの一時的な住居、急な病気のときに様子を見に来てくれる人、人生の節目に声をかけてくれる人。こういうのは「人脈が広い」とは別の話で、「深く長く付き合い続けた結果として生まれるもの」だ。3ヶ月ごとに拠点を変えていたら、これは積み上がらない。

定期的に同じ街に滞在し、関係を構築していくのもありかも知れぬが、、

浅く広い人脈は、平時には便利だけど、本当に困ったときには使えないことが多い。知り合いは世界中にいるけど、深夜に電話できる相手が思い浮かばない、という状態になりやすい。(LinkedInのコネクションとは全然別の話。フォロワー数も関係ない。)

さらに言うと、ビジネス上の信頼というのも同じ構造で育つ。「あいつは長年ちゃんとやってきた」という評価は、同じコミュニティにい続けることで形成される。顔を出し続けること、トラブルのときにどう動いたかを記憶されること、実績が積み重なること。移動者にはこれが難しい。フリーランスとして活動するにしても、長期的な仕事の紹介は「信頼の蓄積」から来ることが多い。

「ネットで繋がれるから距離は関係ない」という反論はよく聞く。半分は正しいと思う。でも残り半分は、やっぱり対面での時間の積み重ねでしか代替できないものがある。

根なし草の精神的消耗

移動しはじめの2〜3年は純粋に刺激的だと思う。新しい街、新しい食べ物、新しい出会い。これは本当にそうだし、その体験の価値を否定するつもりはない。

ただ、その刺激は長続きしない。長期ノマドの話を読んでいると、しばらくすると「どこにも所属していない」という感覚が出てくる人が少なくない。英語圏ではよく"sense of belonging"という言葉で語られる。どこかに属しているという感覚、必要とされているという感覚は、人間の精神的な安定に意外と重要らしい。

会社を辞めて自由になった、場所に縛られない、好きなときに好きな場所へ。その反面として、自由というのを裏から見ると「誰も自分のことを必要としていない」でもある。「誰も自分がいなくて困らない」という状態でもある。どちらが正しい解釈かはその日の気分次第だったりするけど、この感覚は静かに蓄積していく。

これは気づいた時「そうだよな」と納得しつつ、かなり寂しくなったのを覚えてる。

「孤独を楽しめる人向けのライフスタイル」と言い換えるブログも多い。それは正直な表現だと思う。ただ、自分が本当に孤独に強いかどうかは、3年5年やってみないとわからないことが多い。最初の1年で「孤独も悪くない」と書いた人が、3年後に全く違うことを書いているケースは珍しくない。(そのアップデート記事はあまりバズらないので、検索上位には出てこないけど。)

精神的な消耗という意味では、もう一つある。毎回の「新しい環境への適応コスト」だ。新しい街に着くたびに、SIMを買う、住居を決める、銀行や郵便の問題を解決する、近くのスーパーを把握する、生活のリズムを作る。これを楽しいと感じているうちはいいが、ルーティンになると単純に疲れる。旅行と生活は違う。

静かに削られるもの

キャリアの専門性、ローンや賃貸の審査に使われる社会的信用、年金の積み立て、かかりつけ医との継続的な関係。これらは移動コストによってじわじわ削られていく。派手な損失ではないので、気づくのが遅い。

キャリアについて言うと、専門性というのは「同じ領域に時間を投下し続けること」で育つ。移動を最優先にしたライフスタイルでは、仕事の選び方が「どこでもできるか」という軸になりやすい。その結果、場所を問わないけど代替可能な仕事に固定されていくことが多い。ライターやデザイナーやエンジニアが多いのはそのためだが、その中での差別化や深化には、意外と地道な積み上げが必要になる。

自分の場合は、年に数ヶ月はあえて時間をとって、自分に必要なスキルの更新や勉強に充てていた。 そうでもしないと、気づいたときには「どこでもできるけど誰でもできる仕事」だけが残る。

社会的信用という点では、日本は特にシビアで、住民票の問題がある。住所不定になると、携帯の契約更新、クレジットカードの発行、賃貸の審査、確定申告、すべてが少しずつ面倒になる。海外在住なら別の問題が出てくる。これらは「やればなんとかなる」範囲ではあるけど、一つひとつがじわじわ時間と精神力を消費する。(手続きの複雑さと向き合うたびに、「なんで自分こんなことやってるんだろう」という気持ちになる人は多い。)

年金は、国民年金を払い続けるかどうかという問題になる。払わなければ老後の受給額が減る。払い続けるにも、海外在住の場合は任意加入になったり手続きが必要になったりする。20代のうちはピンとこないが、40代50代になったときに「あの10年分が抜けている」という状態は、それなりに効いてくる。

医療の継続性も地味に重要で、持病がある人、メンタルのケアが必要な人にとって、かかりつけ医がいないというのは単純なリスクだ。異国で急病になったときの話はノマドブログでたまに読むが、たいてい「なんとかなった」という締め方をしている。まあ、なんとかならなかった人はブログを書けないので、サバイバーバイアスがかかっている。

体力は有限

20代のうちは、体力と健康が前提になっているライフスタイルだということを忘れがちだ。30代前半くらいまでは、移動の疲れも回復が早い。時差ボケも数日で治る。食が合わなくても胃腸が持ちこたえる。多少の睡眠不足でも翌日には動ける。でも、これは永続しない。

人によるだろうが、30半ばを過ぎたあたりから「なんとなく体が重い」が増えてきて、そこで初めて「ベースが欲しい」と思い始めるケースが多い。病気、親の介護、自分の老後。これらは突然ではなく、じわじわと視野に入ってくる。

特に親の介護問題は、ノマドライフとの相性が悪い。日本の場合、親が70代になると何らかの問題が起き始めることが多い。そのとき、遠く離れていると対応がそもそも難しいし、精神的なコストも高い。「いざとなれば帰る」とは言うけれど、長期でいなくなるのは現実的に難しいケースが多い。

自分の場合、父が亡くなったときはチェンマイにいた。母はたまたま日本一時帰国中、出国の2週間前に急死。 看取れたのは、正直ある意味で幸運だった。

(親の目線から言えば、「子供がどこにいるかわからない」というのは、それだけで心理的な不安らしい。これはなかなか表に出ない話だけど。)

老後という意味では、「ノマドを20年続けた人がその後どうしているか」というデータが、そもそもあまりない。ノマドという生き方が現在の形で普及したのは、せいぜい2010年代に入ってからだ。つまり、長期の結果がまだ十分に出ていない。成功例はあちこちで見かけるが、静かに撤退した人、しんどくなって地元に戻った人の話は、ほとんど語られない。

自分は体力が線引きになる、行けるところまで行って、静かに撤退予定。


移動することで得られるものは確かにある。視野が広がる、自分を客観視できる、場所という制約から解放される感覚。これは本物だと思う。ただ、それと引き換えに、何かを積み上げる速度が落ちる、あるいは積み上がらない、ということも同時に起きている。そこを理解した上で選ぶのと、知らずに飛び込むのとでは、後から感じる後悔の質が変わってくる。

「それでもやりたい」なら全然いいと思う。ただ、礼賛ブログだけ読んでいると、リスクが見えなくなる。特に20代の人が「自由な生き方最高」というコンテンツだけを取り出して判断するのは、少し情報が偏っている。

コストとリスクを知った上で選ぶなら、それは本当の意味での選択だと思う。