はじめに:これは笑えないコメディの話
経済学には数多くの理論があります。マルクスの資本論、ケインズの有効需要理論、フリードマンの貨幣数量説。。いずれも経済学者が膨大な研究と思索の末に生み出した知的遺産です。
しかし今日紹介する「トリクルダウン理論」は少し違います。
この理論の生みの親は経済学者ではなく、アメリカのコメディアンでした。そしてその言葉は皮肉として生まれながら、約100年にわたって世界中の政治家に「真顔で」使われ続け、数え切れないほどの一般市民を豊かにすることなく、確実に富裕層をさらに豊かにし続けました。
笑えますか? あたしにゃぁ、笑えません。
「トリクルダウン」という言葉の誕生(1932年)
時は1932年。世界は大恐慌の真っ只中でした。
アメリカの政府は当時、大企業や富裕層への支援に多額の予算を投じていました。その政策を見ていたコメディアン・コラムニストのウィル・ロジャースは、こんな皮肉をコラムに書き残しました。
「貧しい人々にお金が滴り落ちることを期待して、お金はすべて上位層に割り当てられた」
これが「トリクルダウン(trickle down:滴り落ちる)」という言葉の誕生です。
批判として生まれた言葉でした。皮肉として書かれた言葉でした。ところがその後の歴史は、この言葉を皮肉としてではなく、経済政策の「理論的根拠」として真顔で使い始める政治家たちを量産していきます。
コメディとはかくも深いものです。
レーガノミクス:皮肉が「理論」に昇格した瞬間(1981年)
トリクルダウンが政治の世界で本格的に「経済理論」として使われ始めたのは、1981年のアメリカ、ロナルド・レーガン大統領の時代です。
レーガン政権が推進した「レーガノミクス」の核心は富裕層・大企業への大規模減税でした。その政策を国民に説明する際の論理がまさにトリクルダウンです。
「上が豊かになれば、富は自然に下へ滴り落ちる。だから富裕層を優遇することが、結果的に全員を豊かにする。」
なるほど。シンプルで美しい論理です。
結果はどうだったか? 景気は部分的に回復したものの、財政赤字は爆発的に膨張し、クリントン政権まで解消されませんでした。そして格差は着実に拡大し続けました。
富は、滴り落ちませんでした。
日本版トリクルダウン:アベノミクスという名のシャンパンタワー
日本でも同じコメディが上演されました。2012年から始まった第2次安倍政権のアベノミクスです。
安倍晋三首相は2014年、テレビ番組でこう述べました。
「シャンパンタワーの上のグラスからシャンパンが下へ伝わっていく動き、これがまさにアベノミクスの考え方」
これ以上ないほど明快なトリクルダウンの説明です。
ところが2018年の自民党総裁選後の討論会で石破茂氏から「アベノミクスはトリクルダウン政策だ」と批判されると、安倍首相は涼しい顔でこう答えました。
「そのようなことは一度も申し上げたことはない」
シャンパンタワーの発言映像が残っているにもかかわらず。
コメディとしての完成度は、ウィル・ロジャースの比ではありません。
数字が語る現実
アベノミクス期間中のデータを見ると、シャンパンが「滴り落ちた」かどうかは一目瞭然です。
- 大企業の営業利益:約69%上昇
- 労働者の人件費:約8.5%上昇
シャンパンタワーの最上段のグラスは確かに溢れました。しかし下のグラスへの補充は、ほぼありませんでした。上のグラスのシャンパンはどこへ行ったのか?
答えは自社株買いと内部留保です。
ブレーンたちの「手のひら返し」という芸術
このコメディに欠かせないのが、政権のブレーンたちによる後日談です。
アベノミクスを理論的に支えた経済学者・浜田宏一氏は後に「アベノミクス第1期についてはトリクルダウン理論であるのは事実」「最初に利益を受けたのは外国人を含めた金持ちの投資家だった」と認めました。
また、政策の旗振り役を担った竹中平蔵氏は後に「トリクルダウンはあり得ない」と発言。国民をゴマカし続けたことを事実上認める形となりました。
やはり最初からわかっていたのでしょう。
IMFも公式に「機能しない」と認めた(2015年)
笑えない話はまだあります。
2015年、IMF(国際通貨基金)が公式の研究レポートで以下の結論を発表しました。
「貧困層と中流階級の所得シェアを増やすと成長率は上昇する。一方で、上位20%の所得シェアが伸びるにつれて成長率は低下する」
世界経済の番人が「トリクルダウンは逆効果」と公式に認めた形です。
コメディアンが1932年に皮肉として言った通りのことを、世界最高峰の経済機関が2015年に「研究の結果」として確認するまでに、83年かかりました。
なぜ機能しないのに使われ続けるのか
ここが最も重要な問いかけです。
機能しないとわかっているのに、なぜトリクルダウンは政治の場で繰り返し使われ続けるのでしょうか?
答えは単純です。
機能しないからこそ、使う側にとって都合がいいのです。
トリクルダウン政策の恩恵を受けるのは富裕層と大企業です。そして現代の政治においては、富裕層と大企業こそが政治献金・ロビー活動を通じて政治家を支える構造になっています。
さらに言えば、メディアの広告収入の多くも大企業から来ています。この政策の根本的な欺瞞を大々的に批判することは、メディアにとっても自らの首を絞めることになります。
構造的に、この嘘を暴ける主体が存在しにくいように社会が設計されているのです。
100年間の笑えないコメディ
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1932年 | コメディアンが「皮肉」としてトリクルダウンという言葉を生む |
| 1981年 | レーガンが「経済理論」として政治利用を開始 |
| 2012年 | 安倍政権がシャンパンタワーで説明するほど堂々と採用 |
| 2015年 | IMFが公式に「機能しない」と発表 |
| 現在 | 世界中で同様の政策が続行中 |
1932年にコメディアンが皮肉を書いてから約100年。
その間に何人の政治家がこの言葉を使い、何人の一般市民がその犠牲になったかは数え切れません。しかし確実に言えることがひとつあります。
富裕層はさらに豊かになり、労働者は相対的に貧しくなり続けました。
シャンパンタワーのシャンパンは、下のグラスへは滴り落ちませんでした。どこへ行ったのかといえば、テーブルクロスに染み込んで消えていっただけです。そのテーブルクロスを片付けるのは、いつだって一般市民です。
マーク・トウェインはこう言いました。
「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」
経済政策の歴史ほど、この言葉が当てはまる分野はないでしょう。そして私たちは今日も、その韻の中で生きています。
カンティロン効果って用語のもあるので、またの機会に取り上げます。
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