かつてのスポーツにはもっと泥臭さや執念があった。勝敗が単なるスコアではなく、その人の闘争心、地域社会の誇りまで背負っていて、もっとヒリヒリするような緊張感があったはず、個性の強い選手も多かった。それがいつの間にか、みんな仲良しモードでやられると、個人的に一気に興醒め。
自分が感じているこの違和感の正体は、たぶんスポーツから少しずつ「闘魂魂(昭和ぽい)」が抜けていっているから。
まず、「闘争」が「ビジネス」に変わってしまった。かつては「相手を打ち負かす」という(純粋な?)闘争心が見えたのに、今は「いかに効率よく、リスクを避けて、契約を維持するか」という、高度に計算されたビジネスマンのような振る舞いが増えている。勝負の熱量よりも、ブランド価値を守るための「管理されたパフォーマンス」のほうが透けて見えてしまう。
そして、「格差」がやたらと見えるようになった。選手たちが一般市民の想像を絶する富を享受し、プライベートでは贅沢な生活を送りながら「楽しんでいる」姿、セレブが集うスタジアムの映像がメディアを通じて嫌でも目に入ってくる。日々の生活に追われている側からすると、それはもう共感できる「物語」ではなく単なる「富裕層のためのショー」に見えてしまう。かつてあった「自分たちの代表」みたいな親近感は、もうどこにも見えない。
おまけに、展開が「予定調和」になった。巨大な資本が入れば、どうしてもビジネス寄りなり「強者が勝ち続ける構造」が生まれてくる。昔のスポーツが持っていた予測不能な狂気や、勝利に対する執着、型破りな個性が、きれいに削ぎ落とされてしまった。
つまるところ、スポーツが「生活の糧や誇り」から「洗練された高級な娯楽コンテンツ」へと昇華(あるいは劣化)してしまった。その分だけ、自分が感じる「熱狂」の温度が下がってしまったんだなと、
まぁ、観なければいいだけの話なんだけどね。
(ワールドカップも結局一試合も見ずに終わった。)
旅を長く続けてきて、かつては地元民も旅行者も同じように楽しめた景勝地、公共のビーチや旧市街がどんどん資本に飲み込まれ、いつの間にか手の届かない場所になっていく。そんな光景を目の当たりにしてきた。
人のちょっとした楽しみや熱狂を分かち合えた場所が、一つ、また一つと静かに閉ざされていく。スポーツも、その列に並んだだけなのかもしれない。