私たちが「自由」と口にするとき、そこには少なくとも二つの、本来は別物であったはずの概念が混ざり込んでいる。ひとつは西洋由来の liberty。もうひとつは、東洋の思想が二千年以上かけて練り上げてきた、まったく別種の解放の観念だ。

以前、バーリンの「二つの自由概念」を扱った。消極的自由(〜からの自由)と積極的自由(〜への自由)。あれは西洋思想の内部での区別だった。今回は、その西洋的な自由観そのものを、外側から眺めてみたい。補助線として使うのは、荘子の「逍遥遊」。

西洋の自由:障害との闘争

西洋の自由概念には、その表現がどれほど洗練されても、必ず流れているモチーフがある。「障害の除去」である。

消極的自由とは、他者による干渉という障害を取り除くことだった。国家が私の言論を封じない。他人が私の身体を拘束しない。壁を壊し、鎖を断ち、干渉してくる手を払いのける。ここでの自由は、私と私を妨げるものとの、空間をめぐる闘争として描かれる。

積極的自由とは、自分の理性・意志を実現できる状態だった。無知や貧困や情念という内なる障害を克服し、「本当の自分」が主人となる。こちらでは闘争の相手が外から内へと移るだけで、構図は同じだ。何かを克服し、支配し、拡大することによって自由になる。

ホッブズ、ロック、カント、ミル──立場は違えど、彼らが描く自由な人間の姿は共通している。世界に対して能動的に働きかけ、障害を排除し、自らの領域を確保・拡張する主体だ。自由とは、いわば主体が世界を押し返す力の大きさである。

この発想は、キリスト教的な人間観と無関係ではない。人間は神から意志の自由を与えられ、被造物である自然を管理し、征服する使命を負う。デカルトの「われわれを自然の主人にして所有者たらしめる」という言葉は、この世界観を凝縮している。自由な主体とは、世界と対峙し、それを従える主体なのだ。

荘子の逍遥遊:障害を無意味にする

『荘子』の冒頭を飾る「逍遥遊」篇は、途方もないスケールの寓話から始まる。

北の暗い海に、鯤(こん)という魚がいる。その大きさは何千里あるか分からない。それが化して鳥となる。鵬(ほう)である。背中の広さだけで何千里、翼を広げて飛べば、その翼は空一面を覆う雲のようだ。この鵬が南の海へ飛び立つとき、水面を三千里も打ち、つむじ風に乗って九万里の高さまで昇っていく。

これを見て、地上の蝉と小鳩が笑う。「我々は飛び立って楡や枋の木に止まる。時にはそこまで届かず地面に落ちることもある。それでいいではないか。なんだって九万里も南へ行く必要があるのか」と。

ここで凡庸な読み手は、「大きな鵬は自由で、小さな鳩は不自由だ」と読む。だが荘子の狙いはそこにない。荘子はこう続ける──鵬が九万里を必要とするのは、それだけの巨体を支える風がなければ飛べないからだ。鵬は風に「待つ(有待)」存在なのだ。大鵬もまた、条件に依存している。ならば大鵬は本当に自由なのか。

そして極めつけに、風に乗って十五日も遊行する列子(れっし)ですら、「これはまだ風に待つところがある」と切って捨てる。列子は歩かずに済むだけで、風がなければ動けない。彼はまだ何かに依存している。

では、本当に自由な者(至人)とは何か。荘子はこう言う。

天地の正に乗じて、六気の弁を御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼れ且た悪くにか待たん。

天地のあるがままに乗り、あらゆる変化を乗りこなして、際限のない世界に遊ぶ者。そういう者は、いったい何に依存する必要があるだろうか(無待)。

「障害を取り除く」のではなく「待つことをやめる」

ここに西洋との決定的な分岐がある。

西洋の自由は、障害という「敵」を想定し、それを排除することを目指す。壁があれば壊す。鎖があれば断つ。干渉があれば退ける。自由の量は、排除できた障害の量に比例する。

荘子の自由は、そもそも「障害」という枠組み自体を溶かしてしまう。逍遥遊で問われているのは「何が私を妨げているか」ではない。「私はまだ何に依存しているか(何を待っているか)」だ。そして究極の解放とは、依存の対象を一つずつ排除していくことではなく、依存という関係の構造そのものから抜け出ることなのだ。

大鵬は風を必要とする。列子は風を必要とする。だが至人は、風がある世界もない世界も、そのまま「乗りこなす」。順境も逆境も、それを障害とは見なさない。障害を取り除くのではなく、障害を障害として立ち上がらせる視点そのものを手放す。

分かりやすく言い換えよう。西洋型の自由が「檻の鉄格子を一本ずつ切断していく」ことだとすれば、荘子型の自由は「そもそも自分が檻の中にいるという前提を疑い、鉄格子を鉄格子として見る見方から降りる」ことだ。前者は世界を変えようとする。後者は世界を見る眼を変えようとする。

主体の拡大 vs 主体の溶解

もう一つ、根本的なマインドセットの違いがある。自己という主体をどう扱うかだ。

西洋の自由は、主体を強く、大きく、独立したものにすることを目指す。自律した個人(autonomous individual)こそが自由の担い手だ。他者に依存せず、自分の理性で判断し、自分の意志で選択する。近代西洋の理想的人間像は、輪郭のくっきりした、揺るがぬ「私」である。

荘子はまったく逆を向く。彼が繰り返し語るのは、主体の輪郭を溶かすことだ。有名な「胡蝶の夢」──荘周が夢で蝶になったのか、蝶が夢で荘周になっているのか分からない、というあの寓話は、「私」という同一性がそれほど確固たるものではない、という洞察だ。「斉物論」篇では、自己と他者、生と死、有用と無用といった対立そのものが、人間の狭い視点が生み出した仮の区別にすぎないとされる。

西洋が「私」を拡大することで自由になろうとするのに対し、荘子は「私」への執着を薄めることで自由になろうとする。前者は自己を膨らませ、後者は自己を透明にする。

これは優劣の問題ではない。二つの異なるOS(基本ソフト)だと考えたほうがいい。西洋型OSは、権利を主張し、制度を設計し、抑圧と闘い、社会を前進させるのに圧倒的に強い。近代の人権も民主主義も市場経済も、このOSの上に築かれた。一方で、このOSは「闘う相手」を絶えず必要とし、勝ち続けなければ自由を実感できないという、消耗の宿命を抱える。

荘子型OSは、変えられない現実、老いや病や死、理不尽な権力といった、排除しようのない障害の前で真価を発揮する。障害と闘って勝つのではなく、障害を障害と見なす見方から降りることで、心の平静を保つ。ただしこのOSには致命的な弱点がある。放っておけば容易に「諦め」や「現状追認」に堕する。権力にとって、これほど都合のよい思想もない。

なぜ日本人は自由を実感しにくいのか

日本人の多くは、「自由がない」と積極的に感じているわけではない。むしろ「そこそこ自由だ」と思っている。しかし同時に、西洋人が語るような、権利を主張し、国家と対峙し、自らの領域を勝ち取るという意味での自由の手応えは、驚くほど希薄だ。この奇妙なねじれは、どこから来るのか。

一つの仮説はこうだ。日本社会には、西洋型の自由(liberty)を測る物差しと、荘子型・東洋型の自由を測る物差しが、無自覚に混在している。そして日本人が「自由」を感じるとき、その多くは実は後者── 「世間から一時的に降りる自由」「角を立てずにやり過ごす自由」「本音と建前を使い分け、心の中では距離を取っておく自由」なのだ。

これは荘子的な自由の、極めて縮小され、俗化されたバージョンだと言える。会社や世間という「風」に乗りながら、内心ではそれを相対化し、「まあ、こんなものだ」と受け流す。表向きは従い、内面では距離を取る。この「内面への撤退」による自由は、たしかに一種の解放ではある。

だが問題は、この東洋型の自由が、西洋型の自由の欠如を埋め合わせる言い訳として機能してしまうことだ。制度と闘って権利を勝ち取る代わりに、「心の持ちようで楽になれる」と自らに言い聞かせる。荘子の壮大な無待の境地は、いつのまにか「長いものには巻かれろ」「考えても仕方ない」という、現状追認の処世術に矮小化される。

お上が理不尽な決定を下す。誰も責任を取らない。だが人々は街頭に出ず、ただ内面へと撤退し、「まあ、お上のやることだから」とやり過ごす。これは荘子の逍遥遊ではない。逍遥遊の顔をした、思考停止だ。荘子が説いたのは依存構造から抜け出る自由であって、依存構造を追認しながら心だけ逃がす自由ではなかった。

二つの自由を、どう使い分けるか

では、東洋型の自由は捨てるべきなのか。そうではない。

私たちが本当に必要としているのは、二つのOSを状況に応じて使い分ける知恵だ。

変えられるもの、闘って勝ち取れるもの──不当な制度、理不尽なルール、侵害された権利──に対しては、西洋型の自由のマインドセットで臨むべきだ。障害を障害として直視し、声を上げ、押し返す。ここで荘子を持ち出すのは、ただの逃避になる。

一方、変えられないもの、闘っても勝てないもの──自分の生まれ、過ぎ去った過去、他人の評価、避けられない老いと死──に対しては、荘子型の自由が効く。ここで西洋型のマインドセットに固執すれば、勝てない相手と闘い続けて消耗するだけだ。障害を無意味にする視点の転換こそが、心を守る。

最悪なのは、この使い分けを逆にすることだ。変えられる制度に対して荘子的に諦め、変えられない運命に対して西洋的に苛立つ。残念ながら、これが現代日本人のかなり典型的な精神の姿ではないか、と私は疑っている。闘うべき相手には「まあ仕方ない」と目を閉じ、受け入れるしかないものには「なぜ自分だけが」と歯噛みする。順序が、あべこべなのだ。

荘子の逍遥遊は、決して現実逃避の思想ではない。それは、依存の構造を透徹した眼で見抜き、そこから本当に抜け出るための、苛烈なまでの精神の運動だ。大鵬すら依存を免れないと喝破する、あの容赦のなさを思い出してほしい。それは「考えないこと」の対極にある。むしろ、依存の一つひとつを徹底的に「見る」ことから始まるのだ。

檻は一つではないという話を以前した。私たちを閉じ込める檻は、制度という外の檻だけではなく、ものの見方という内の檻でもある。西洋の自由は外の檻を壊す技術を、荘子の自由は内の檻から降りる技術を、それぞれ磨き上げてきた。

どちらか一方だけでは、人は本当には自由になれない。外の檻を壊せなければ現実に潰され、内の檻から降りられなければ、壊した先でまた別の檻を自分で建てるからだ。


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