本稿では自由への戦場を一つ移す。情報である。

「真理は自由競争で勝つ」という、美しすぎる前提

言論の自由を擁護するとき、決まって持ち出される古い比喩がある。「思想の自由市場(marketplace of ideas)」だ。

市場で良い商品が競争を勝ち抜くように、思想も自由に流通させれば、最後は真実が勝ち残る。だから国家は黙っていろと、ミルトンが『アレオパギティカ』で「真理と虚偽を戦わせよ、真理が負けたためしがあろうか」と書き、J.S.ミルが磨き上げ、アメリカのホームズ判事が「真理の最良の判定基準は、市場の競争で自らを受け入れさせる思想の力だ」と法廷に持ち込んだ。

アダム・スミスの「見えざる手」を、思想から商品へ横滑りさせた理屈である。

美しい。だが、美しい理屈ほど、現実の前では脆い

市場はとうに歪んでいる

正直に言おう。今の思想の市場は、自由とは程遠い。

人はもはや思想を「自由に吟味」してなどいない。何が目に入るかを決めているのは、プラットフォームのアルゴリズムだ。しかもその選別基準は、真偽ではない。滞在時間と広告収益である。怒りと恐怖を煽る情報は、地味な真実よりはるかに速く拡散する。ボットや工作機関や広告予算によって、「声の大きさ」は金で買える。そして人々は、対立する思想と出会うことすらないまま、それぞれの心地よい泡の中で完結している。

「自由競争の結果として真理が勝つ」

この前提は、技術的にも経済的にも心理的にも、すでに崩れている。勝つのは真理ではない。最も拡散しやすいものだ。前の記事で論じた「空気」が、グローバル規模で再演されているにすぎない。

「ならば規制を」という声を疑う

ここで必ず現れる声がある。「だからルールが必要だ」「アルゴリズムを規制しろ」「ファクトチェックを義務化しろ」。

たいてい善意の顔をして配慮を装い、「みんなのために」と囁きながら近づいてくる。自由への制約は、いつもこの優しい顔でやってくることを忘れてはならない。

そもそも市場はコントロールできない。人間の集合的な振る舞いが、設計者の思惑どおりに動いたためしはない。ルール設計は、無意味に終わるか、さもなくば市場をさらに歪めるだけだ。

そして決定的なのはこれだ。どんなルールも、結局は「ルール設定者に有利」に作られる

これは陰謀論ではない。近代立憲主義の基本前提:規制を作る側もまた、中立な聖人ではなく、自己利益を持つ一人のプレイヤーであることを、情報の世界に当てはめただけである。フェイクニュース対策法は、いつのまにか政権批判の封じ込めに転用される。「健全化」アルゴリズムは、特定の声を静かに不利にする。「透明性ルール」は、巨大企業には負担にならずとも、小さな新規参入者を締め出す壁になる。

善意の規制者が市場の歪みを正してくれる。それは「真理は勝つ」と同じ、いや、それ以上に危うい幻想だ。これは検閲ですらない。検閲という仕事を「正義」という化粧で覆い隠した、設定者のための利益作りである

答えは「供給側」ではなく、一人ひとりの内にある

問題の本質は、結局「受け手が騙される」こと。打てる手は二つしかない。

ひとつは、供給側を規制すること。これは今述べたとおり権力に餌を与えるだけだ。

もうひとつは、一人ひとりが自らの頭を鍛えることである。

この二つには、大きな差がある。前者は「誰が正しさを決めるのか」という権力を、どこか一箇所に集中させる。後者は、判断の主体を一人ひとりに分散させたまま、社会全体の耐性を上げる。誰にも「正しさを決める王座」を渡さずに済む。

個人の判断力にこだわるのは、理想論を語りたいからではない。むしろ逆だ。

不完全な個人に賭けるほうが、不完全な権力に賭けるよりはマシ

その冷めた現実主義からである。賢い王が情報を整理してくれる、という夢を見られるのは、その王に裏切られたことのない者だけだ。

AIという、希望の顔をした新しい王

その「自らの頭を鍛える」道具として、AIにはかなり期待できる。

教師も、教育機関も、新聞も介さず、自分のペースで問いを立て、反論をぶつけ、論を試せる。一方的に正解を受け取るのではなく、対話の中で揉む。思想の自由市場を、自分の頭の中に再現することに近い。知へのアクセスが、特定機関の独占から解放される。。。

と、ここで手放しに称賛して終わるわけにはいかない。

AIは、いくらでもチューニングできる。

何を答え、何を黙し、どう言い回すか。すべて訓練とファインチューニングで設計されている。これは「削除」ではない。最初から特定の傾向へ、滑らかに誘導する技術だ。従来の検閲より厄介かもしれない。なぜなら、

  • 出力が自然すぎて、検閲だと気づけない
  • 「ここには触れない」が、沈黙としてすら認識されない
  • 誰がどんな価値観を埋め込んだのか、利用者には見えない

「ルール設定者は中立な聖人ではない」という不信は、AI開発企業にこそ、最も鋭く突き刺さる。発生源の見えない「空気」が、ついに機械の形をとって、各人の手元に配られたのだ。

だから、付き合い方はひとつしかない。AIを「答えをくれる権威」として拝んではならない。「反論と素材を差し出す壁打ち相手」として使い倒すこと。一つの答えを真に受けない。複数の声を突き合わせる。「これはどう偏っているか」を常に疑う。そして、

最終判断だけは決して手放さない

AIに判断を委ねた瞬間、人は新しい王にひざまずくことになる。論を試す研磨剤として使い続ける限りにおいてのみ、それは人を自由にする道具となる。

ニワトリと卵、そんな循環は歩きながら抜ければいい

ここで、利口ぶった循環論法にぶつかる。

賢く判断するにはメディアリテラシーが要る。だがリテラシーを身につけるには、情報に揉まれて判断の経験を積むしかない。判断力がないうちは騙される。ニワトリが先か、卵が先か。。。

長いあいだ、これは行き詰まりだと思われてきた。だが、その「行き詰まり」は、机の上でしか成立しない。

騙されながら、賢くなればいい。ただ、それだけのこと。

静止画として睨めば循環でも、時間という軸を一本通せば、ただの螺旋階段になる。騙される。痛い目を見る。「あれは何だったのか」と振り返る。少し賢くなる。また別の形で騙される、この階段を上り続けること、それ自体がリテラシーの獲得「である」。完成された判断力を持ってから世界に出る人間など、どこにもいない。世界で転びながら、それを身につけるのだ

「騙されない権利」を差し出される、という誘惑

これは情報に限った話ではない。人生そのものが、そうではないか

最初から完璧な判断力を持って生まれてくる人間はいない。失恋し、騙され、損をし、後悔し、その積み重ねでしか、賢さは育たない。ノーリスクで賢くなる方法など、この世に存在しない。

だとすれば、情報の世界だけ「騙されないように先回りして守ってあげましょう」という発想こそ、最も警戒すべきものだ。それは前の記事で書いた「自由でなくても生きていける」という誘惑の、最新版にすぎない。「正しい情報だけ配給します、だから自分で考えなくていいですよ」この甘い囁きに頷いた瞬間、人は永遠に未成年の檻に入る。

ミルは、誤った意見に触れることすら必要だと説いた。誤りとぶつかってこそ、真理は「死んだ教義」ではなく「生きた確信」になる、と。カントはこう書いた

「啓蒙とは、人間が自ら招いた未成年状態から抜け出すことだ」

誰かに守られて間違えずに済む安楽より、自分で判断して間違える痛みのほうが、人間として一段上なのである。

守ってくれる手は、いつでも首を押さえる手に変わりうる。

騙される権利こそ、最後の自由

最初の問いに戻ろう。思想の自由市場は機能するのか。

答えは「市場が真理を選別してくれる」ではない。そんな都合のいい自動販売機は存在しない。本当の答えはこうだ。

市場で揉まれる経験を通じて、人間の側が育っていく

主役は市場ではない。転びながら歩く、一人ひとりだ。 だから、検閲にも、善意のルール設計にも、優しいAIの配給にも、首を縦に振ってはならない。守られて飼い慣らされるくらいなら、騙されて転んで、自分の足で立ち上がるほうを選べ。騙される権利を手放した瞬間、考える権利ごと手放している。

ただし一度きりの転倒だけは、避けよ

「騙されつつ賢くなる」が成り立つのは、転んでもやり直せる範囲においてだけだ。失敗が致命傷にならない限り、螺旋階段は回り続ける。だが、詐欺で全財産を溶かす、扇動で取り返しのつかない暴力に加担する。一度で終わる失敗もある。ワイマール憲法を信じた人々が、二度目の選挙をやり直せなかったように。

これは「だから規制しろ」という話では断じてない。「致命傷だけは食らわない耐性を、自ら持っておく」という話だ。転んでいい場所と、転んだら戻れない崖を見分けること。それすらも、結局は一人ひとりの判断力の一部なのだから。

守られることではなく、転ぶことを選べ。

転びながら、賢くなれ。騙されてなお、自分の頭で考え続ける。それが、自由な人間の生存戦略である。


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