私たちは長いあいだ、政治を一本の線の上で考えてきた。
右か、左か。保守か、革新か。その線のどこに立つかで人は色分けされる。あなたも自分をその線のどこかに «右寄りか左寄りか、真ん中あたりか» 置いてきたはずだ。
だがもしその線が、そもそも世界を捉えきれていなかったとしたら?
たとえばこんな政治家がいる。アメリカのロン・ポール。彼は共和党、つまり「右」の政治家だ。ところが彼は戦争に反対し、麻薬の合法化を訴え、そして何より——国の中央銀行(FRB)そのものを廃止せよと叫び続けた。
「右」なのか「左」なのか。彼を一本の線の上に置こうとするとどこにも置けない。右に置けば戦争反対が説明できず、左に置けば中央銀行廃止が説明できない。彼は、線からはみ出している。
はみ出しているのは、彼がおかしいからではない。線のほうが、足りなかったのだ。
この記事で紹介する「リバタリアニズム」という思想を知ると、政治の見え方が一変する。一本だった線に、もう一本、垂直な軸が刺さる。平坦だった政治の世界に、突然奥行きが生まれる。1次元が2次元になる、いや、体感としては、フラットな世界が急に立体的に立ち上がってくる。
そして、その立体の地図を手にしたとき、ロン・ポールのような「線からはみ出した政治家」が、ちゃんと座標を持って見えてくる。それどころか、これまで「なんとなく胡散臭い」「よく分からない」と片付けていた多くの政治的立場が、突然整理されて見えるようになる。
日本にロン・ポールのような政治家はいるだろうか。おそらくほとんどいない。いたとしても、私たちは一本の線しか持っていないから、その存在を認識すること自体ができないのかもしれない。見るための軸がなければ、そこにいる人も見えないのだ。
だから、まず軸を手に入れよう。これは単なる海外思想の解説ではない。あなたが政治を見るための、座標そのものを増やす話でもある。
たった一つの共通点
リバタリアニズムは、実はものすごく広い。広すぎて両端にいる人間同士は、互いを「敵」と見なすほどだ。社会主義者とアナーキスト、巨大企業の擁護者と国家の破壊者、これらが全部同じ「リバタリアン」という看板の下にいる。
これだけバラバラな思想群が、かろうじて共有しているものは、たった一つしかない。
「権力の集中は、個人の自由を脅かす」
これだけだ。権力が一箇所に集まれば人は抑圧される。だから権力の集中に抵抗せよと、、ここまでは、全リバタリアンが頷く。
問題はその次だ。「では、どの権力が一番危険なのか?」 この一点で、リバタリアニズムは真っ二つに裂ける。
- 右派は言う:最も危険なのは国家だ。国家を縮小・廃止し、市場を自由にせよ。
- 左派は言う:危険なのは国家と資本(企業・大私有財産)の両方だ。両方を解体し、人々の自治に委ねよ。
「国家だけが敵」なのか「国家と資本の両方が敵」なのか。この一点が、すべてを分ける分岐点である。
そして、まさにこの「分岐」こそが、冒頭で言ったもう一本の軸の正体だ。
二本目の軸:「国家」と「資本」
従来の「右か左か」という一本の線は、ざっくり言えば「政府の役割は大きいほうがいいか、小さいほうがいいか」を測っていた。左へ行くほど大きな政府、右へ行くほど小さな政府。これが横軸だ。
リバタリアニズムが教えてくれるのは、ここにもう一本、垂直な軸が必要だということだ。
「個人の自由 vs 権威による統制」
より具体的には「権力は国家に集中しているか、それとも資本(大私有財産)に集中しているか」という縦軸である。
この二本目の軸が刺さった瞬間、世界は一本の線から平面になる。そして、これまで「同じ右派」「同じ左派」とひとくくりにされていた人々が、上下に散らばってはっきり別の場所に立っていることが見えてくる。
ロン・ポールに戻ろう。彼は横軸では「右(小さな政府)」だ。だが縦軸では「個人の自由」の極に振り切れている。だから戦争(国家による暴力)に反対し、中央銀行(国家による通貨支配)の廃止を訴える。横軸だけでは矛盾に見えた彼の主張が、縦軸を足した平面の上では、一つの座標にぴたりと収まる。
線からはみ出して見えた政治家は、はみ出していなかった。私たちが、彼を映す軸を持っていなかっただけなのだ。
地図を広げる:左端から右端まで
では、実際にこの平面の地図を広げてみよう。「国家」と「資本(大きな私有財産)」への態度で、左端から右端まで人々を並べるとこうなる。
左派リバタリアン ←―――――――――――――――――――――――――――→ 右派リバタリアン
アナキズム │ 古典的自由主義 │ シカゴ学派 │ アナルコ・
(チョムスキー) │ (ハイエク) │ (フリードマン) │ キャピタリズム
│ │ │ (ロスバード)
│ │ │
国家 × │ 最小国家 ○ │ 小さな国家○ │ 国家 ×
資本 × │ 資本 ◎ │ 資本 ◎ │ 資本 ◎
(私有財産も否定) │ │ │(私有財産は絶対)
この地図の一番のポイントは、両端(チョムスキーとロスバード)が、どちらも「国家を否定する(×)」 という点だ。一見、両極端なのに「反国家」では一致している。
だが、資本(大きな私有財産)への態度が正反対だ。左端は資本を否定し(×)、右端は資本を神聖視する(◎)。だから同じ「国家を憎む」者同士なのに、まったく違う社会を目指す。ここに、後で触れる最大の謎がある。
※ ここで言う"資本"とは、歯ブラシのような個人の持ち物ではなく、工場のように他人を働かせて利益を生む財産を指す。この区別自体が実は左右を分ける核心なのだが、それは別稿で扱う。
順番に見ていこう。
左端:アナキズム(チョムスキー、バクーニン)
最も左の極。彼らは国家も資本も、両方とも抑圧装置だと考える。
- 国家=暴力による支配
- 資本(企業・大私有財産)=経済による支配
だから両方を解体し、働く人々自身が職場や地域を運営する自治に置き換えよと主張する。彼らにとって「自由」とは働く人が自分の生活と労働を自分でコントロールすることだ。
注目すべきは彼らが私有財産による支配を「敵」と見なすことだ。これは右派が何より守ろうとするものである。つまり左端と右端は、最も大切にするものが、正反対なのだ。
中央:古典的自由主義(ハイエク)
ある意味リバタリアニズムの「原型」がここにいる。ハイエクは市場を重んじつつ、最小限の国家とセーフティネットは認める穏健派だ。法の支配を守る国家は必要だ、と考える。
中間にいるがゆえに、左からは「右派」と呼ばれ、右端からは「生ぬるい裏切り者」と罵られる。両側から撃たれる位置だ。
右寄り:シカゴ学派(フリードマン)
国家をできる限り小さくしたいが、国家という道具を使うことは厭わない実務派。現実の政治(レーガン、サッチャー)に最も影響を与えた。市場原理であらゆる問題を解こうとするが、完全な無政府は目指さない。
右端:アナルコ・キャピタリズム(ロスバード)
最も右の極。国家を完全に否定し、私有財産を絶対視する。警察も裁判所も国防すら、すべて民間が市場で提供すべきだと考える。国家とは税金という形で人々から強制的に金を奪う「合法化された強盗」にすぎないと。
ここで決定的なのが、左端と同じく「国家を否定」しながら、資本(私有財産)は神聖不可侵とする点だ。
最大の謎:なぜ「最も近い隣人」が「最も憎い敵」になるのか
ここでこの地図の核心的な謎に行き当たる。
左端のチョムスキーと右端のロスバードは、「国家は暴力的な抑圧装置だ」という出発点を共有している。言葉だけ聞けば、二人は同じことを言っている。なのに二人の目指す社会は正反対だ。なぜか。
答えはもう分かるはずだ。地図が一本の線では足りないからだ。「国家への態度(横軸)」だけでなく「資本への態度(縦軸)」を入れなければ、二人の違いは見えない。
反・資本(私有財産を否定)
↑
左派リバタリアン(チョムスキー)
│
反国家 ←―――――――――┼―――――――――→ 親国家
│
右派リバタリアン(ロスバード)
↓
親・資本(生産手段としての私有財産を絶対視)
この二軸で見ると、二人は「反国家(横)」では隣同士だが「資本(縦)」では正反対の極にいる。だからこそ、
最も近いはずの隣人が、最も憎い敵になる。
左端から見れば右端は「国家がなくなっても、企業という私的権力による支配が残るだけ」に見える。右端から見れば左端は「自由の根幹である私有財産を否定する敵」に見える。二人は「反国家」という顔だけが似たまったくの他人なのだ。
(なぜ二人がここまで分かれるのか?、その鍵は「資本」と「個人的な持ち物」は同じものか?、という問いにある。これは連載の別稿で詳しく扱う。)
言葉の乗っ取り:「リバタリアン」はなぜ右派の名前になったのか
実は、「リバタリアン(libertarian)」という言葉は、もともと左派のものだった。
- 19世紀のヨーロッパでは、この言葉はアナキスト・社会主義者(=左派)を指していた。バクーニンらの系譜だ。「国家にも資本にも支配されない自由」を求める人々の名前だった。
- ところが20世紀半ば、アメリカで右派(ロスバードら)が、この魅力的な言葉を「自分たちのもの」として借用した。彼らは「自由=経済的自由=私有財産の自由」と再定義した。
- 結果、今ではアメリカで「リバタリアン」と言えば右派を指すようになり、その用法が世界に、そして日本に輸入された。
つまり、私たちが「リバタリアン=右派」だと思っているのは、言葉が乗っ取られた後の世界を見ているからだ。チョムスキーが自分を「リバタリアン社会主義者」と呼ぶのは、本来の意味を取り戻そうとしているからにほかならない。彼に言わせれば、アメリカの右派は「言葉を乗っ取った連中」なのだ。
ここに、この連載全体のテーマが、早くも顔を出している。一つの言葉が、特定の勢力によって読み替えられ、本来の意味が見えなくされる。 あなたが「リバタリアン=右派」と思い込んだその瞬間に、すでに一つの読み替えが完了していたのである。
結論 軸を持つ者は、操作されにくい
リバタリアニズムは一つの思想ではない。「権力の集中は自由を脅かす」という気分だけを共有する、巨大で分裂した家族だ。そして家族内の喧嘩は外部との喧嘩より激しい。
リバタリアニズムの共通項
=「権力の集中は自由を脅かす」(これだけ)
↓ 「どの権力が敵か」で分裂
左派:国家+資本の両方が敵 → 自由とは「働く人の自治」
右派:国家だけが敵、資本は神聖 → 自由とは「私有財産の自由」
だがこの記事で手に入れられるものは、リバタリアニズムの知識そのものではない。政治を見るための、二本目の軸だ。
これまで一本の線 «右か左か» しか持っていなかったあなたは、平面を手に入れた。のっぺりしていた政治の風景に奥行きが生まれた。ロン・ポールのように「線からはみ出して見えた」人々が、座標を持って立ち上がってくる。
なぜ、これが大切なのか。
誰かが「自由のために」と言うとき、その人がどの自由を指しているのか?働く人が生活を支配する自由なのか、それとも強者が規制を逃れる自由なのか?を、二本の軸があれば見分けられるからだ。軸がなければ、私たちはただ「自由」という美しい言葉に頷き、気づけば誰かの都合のいい側に立たされている。
日本に、ロン・ポールのような政治家は現れるだろうか。それは分からない。だが確かなことは一つ、私たちが軸を持たない限り、たとえ現れても、その姿は見えないということだ。見るための座標がなければ、そこにいる人も、存在しないのと同じになる。
だからまず私たち自身が軸を持とう。それは海外の政治知識を仕入れることではない。「自由」という言葉が振りかざされたとき、立ち止まって"どの自由だ?“と問えるようになるという、もう一本の軸を自分の中に立てることだ。
次は、この地図の右端を拡大してみよう。国家を否定する者たち:ロン・ポールが叫んだ「中央銀行廃止」を、思想として突き詰めた人々が、なぜFRBや日銀のような存在を、何より憎むのか。そこから、日本の経済論争が見落としている、隠れた前提が見えてくる。