簡単な質問から始めよう。
あなたは今、歯ブラシを持っている。服を着て、もしかすると自分の家に住み、車を運転しているかもしれない。これらは、あなたの「財産」だ。
では、こう考えてみてほしい。ある人物が、従業員300人を雇う工場を所有している。彼自身は工場で働かない。だが、その工場が生み出す利益は、毎年すべて彼のものになる。この工場も、彼の「財産」だ。
ここで問いたい。あなたの歯ブラシと彼の工場は、同じ「財産」なのか?
「当たり前だ、どちらも財産だろう」:そう即答したあなたは、すでに片足を、ある政治的立場に踏み入れている。 「いや、何かが決定的に違う気がする」:そう感じたあなたも、別の立場に足をかけている。
この問いは、ただの言葉遊びではない。この問への答えが、人を右と左に引き裂く、最も深い分岐点なのだ。これまでの連載で見てきたチョムスキーとロスバード、左端と右端の対立も、ハイエクとフリードマンの違いも、突き詰めれば、すべてこの一点に行き着く。
今回は、連載で最も挑発的な回になる。なぜなら、これは解説ではなく、あなた自身が答えを迫られる踏み絵だからだ。
英語には、財産を分ける言葉がある
まず、知っておくべき事実がある。英語には、私たちが「財産」と一括りにしているものを、二つに分ける伝統がある。特に左派(社会主義・アナキズム)の議論では、この区別が決定的に重要だ。
| 用語 | 中身 | 例 | |
|---|---|---|---|
| 個人的財産 | Personal Property | 自分が使う・消費するもの | 歯ブラシ、服、家、車、スマホ |
| 私的財産(資本) | Private Property | 他人を働かせて利益を生むもの | 工場、農地、会社、賃貸物件、株式 |
日本語では、どちらも「財産」あるいは「私有財産」と訳されてしまう。だから、この区別がそもそも見えなくなっている。だが英語圏の政治思想では、この二つはまったく別のものとして扱われる。
そして決定的なのが、これだ。
資本(Capital) ≒ 生産手段としての私的財産(Private Property)
つまり、左派が「私有財産を廃止せよ」と言うとき、彼らが指しているのは工場や農地:資本であって、あなたの歯ブラシ:個人的財産ではない。ここを取り違えると、左派の主張は永遠に理解できない。
なぜ、この二つは「違う」のか
では、なぜ歯ブラシと工場を分けるのか。両者は、性質がまったく違うからだ。
個人的財産(歯ブラシ、家、車)
- あなたが自分で使う
- 使えば、その効用はあなたのものになる
- それは他人を支配しない
- あなたの家に住むのは、あなただ
資本(工場、農地、賃貸物件、株式)
- あなたは使わない。他人に使わせる
- 所有しているだけで、利益(利潤・地代・配当)が生まれる
- そして決定的に、それは他人の労働を支配する力になる
- あなたの工場で働くのは、あなたではなく、雇われた誰かだ
左派の核心的な主張は、こうだ。
「個人的財産」は、何の問題もない。誰もあなたの歯ブラシを奪おうとはしていない。だが「資本」は、所有者に"自分は働かずに、他人の労働の成果を受け取る力"と、“他人を支配する力"を与える。これこそが、不平等と抑圧の源泉なのだ。
連載の最初に登場したチョムスキーが「企業による専制(private tyranny)」と呼んだのは、まさにこれだ。資本を持つ者が、持たざる者——働くしかない人々——を支配する。働く人は、生活のために、資本家の決めた条件で、資本家のために働かざるをえない。チョムスキーは、この構造そのものを「私的な専制政治」と呼んだのである。
歯ブラシは、誰も支配しない。だが工場は、人を支配する。だから両者は、同じ「財産」という言葉で呼ぶべきではない、これが左派の論理だ。
リバタリアン右派は、この区別そのものを拒否する
ところが、ここで右派リバタリアン——特に連載で何度も登場した右端のロスバード——は、真っ向から反論する。彼らは、この区別そのものを認めない。
ロスバードにとって、財産は財産だ。歯ブラシも工場も、同じ一つの権利から生まれている。すなわち、連載で見た「自己所有権」:人は自分自身を所有し、自分の労働の成果を所有する、という原理だ。
彼の論理を追うとこうなる。
- あなたは自分自身を所有している(自己所有権)
- だから、あなたの労働の成果も、あなたのものだ
- あなたは過去に働いて、お金を貯めた。それで工場を建てた
- 工場は、あなたの労働と貯蓄の正当な成果だ
- ならば、歯ブラシと同じく、工場も神聖不可侵だ
- それを「資本だから」と特別扱いして奪うのは、ただの盗みを正当化する詭弁である
右派から見れば、「生産手段だけは別だ」という左派の主張は、没収のための言い訳にすぎない。「歯ブラシはあなたのもの、でも工場はみんなのもの」:その線を、いったい誰が、どんな権利で引くのか? その線引き自体が恣意的で危険だ、と彼らは言う。
つまり、
左派:財産には2種類ある
Personal(歯ブラシ)→ OK
Capital(工場)→ 他人を支配する道具だからダメ
右派:財産に種類などない
歯ブラシも工場も、同じ自己所有権から生まれた
等しく神聖。区別するのは没収の口実だ
この「財産を二つに分けるか、一つと見るか」という一点に、左右対立のすべてが凝縮されていると言ってもいい。
なぜ、これが「踏み絵」なのか
ここまで読んで、あなたはおそらく、自分がどちらに傾いているか、うっすら感じているはずだ。それこそが、この問いが踏み絵である理由だ。
冒頭の問いに戻ろう。「歯ブラシと工場は同じ財産か?」
- 「同じだ」と答えた人は、自己所有権からすべての財産を等しく正当化する、右派の論理に立っている。財産は財産であり、それを生産手段かどうかで区別するのは恣意的だ、と。
- 「違う」と感じた人は、財産を「使うもの」と「他人を支配するもの」に分ける、左派の論理に立っている。所有が権力に変わる瞬間に、問題が生まれる、と。
面白いのは、多くの人がこの問いを意識したことすらないことだ。私たちは「私有財産」という一つの言葉で、歯ブラシも工場も一緒くたにしてきた。そして一緒くたにした瞬間、私たちは無意識に右派の前提を受け入れている。なぜなら、「二つは同じだ」というのが、まさに右派の主張だからだ。
ここに、連載が追い続けてきたテーマが、また顔を出す。言葉が、思考を縛っている。 日本語には「資本」と「個人的財産」を日常的に区別する習慣がない。だから私たちは、区別するという選択肢があること自体に気づかない。区別を知らないまま、知らず知らず一方の立場に立たされている。
そして、ここが重要だ、右派が、この区別を「ない」とすることは、それ自体が一つの政治的立場である。「財産はすべて同じだ」というのは、中立な事実ではない。それは「資本の正当性を、歯ブラシの正当性と同じ強さで守る」という、極めて政治的な主張なのだ。だが、それがあまりに自然に語られるため、私たちはそれを「当たり前」と感じてしまう。
同じ哲学者を、左右が奪い合う:ロックの「割れ目」
この対立が、いかに根深いか。それを象徴するのが、近代の財産権の生みの親、ジョン・ロックをめぐる「奪い合い」だ。
ロックは17世紀、こう論じた。「自然(誰のものでもないもの)に、自分の労働を混ぜたとき、それは自分の財産になる」。森のドングリを拾えば、その労働ゆえに、ドングリは拾った人のものになる。これが近代の私有財産を正当化する、最も基礎的な理屈になった。
ところが、この同じロックを、右派と左派が正反対の方向に使う。
右派の読み:「労働で得たものは自分のもの。私は労働して資本を築いた。だから資本は神聖だ」、ロックは資本主義の守護神になる。
左派の読み:「価値を生むのは労働だ。なら、工場で実際に働いている労働者こそ、成果の所有者であるべきだ。なぜ働いていない所有者が利益を取るのか?」、ロックは労働者の味方になる。
同じ哲学者が、一方では資本の正当化に、他方では資本の批判に使われる。なぜ、こんなことが起きるのか。
理由は、ロック自身の議論に「割れ目」があったからだ。彼の原理は「自分が労働したものは自分のもの」という、一人称の話だった。森でドングリを拾う個人を想定している。だが資本主義では、所有者と労働者が別人だ。工場を持つ人と、そこで働く人が違う。ロックの一人称の論理は、この「他人を雇って働かせ、成果を所有者が取る」という状況を、本当はうまく正当化できない。だから両陣営が、それぞれ都合よく解釈できてしまう。
ロックはさらに「他人にも同じだけ良いものが残されている限りで」財産取得を認める、という但し書き(ロック的但し書き)も付けていた。土地が有限なら、誰かの独占は他人の取り分を奪う:この但し書きを使えば、左派は「資本の集中はロック自身の原理に反する」と主張できる。
つまりロックは、右にも左にも読める形で書いてしまった。これは次の連載で詳しく扱うが、偉大な思想ほど、こうした「割れ目」を抱え、各陣営がその片側だけを相続していく。財産をめぐる左右の対立は、300年以上前のロックの一文の「割れ目」から、今もなお続いているのだ。
結論 あなたは、どちらの線を引くのか
この記事は、答えを押し付けない。「歯ブラシと工場は違う」と断じることも、「同じだ」と断じることもしない。どちらにも、筋の通った論理と、無視できない反論がある。
- 「同じだ」とすれば、財産権は強固に守られるが、資本による支配——チョムスキーの言う"私的な専制”——を批判する言葉を失う。
- 「違う」とすれば、資本の権力を問題にできるが、「どこで線を引くのか」「誰が線を引くのか」という、答えの出ない難問を抱え込む。
だが、この記事があなたに手渡したいものは、はっきりしている。それは**「私有財産」という、のっぺりした一つの言葉を、二つに割って見る視力**だ。
これまで、あなたは「財産」を一つのものとして見てきたかもしれない。だが今、あなたは問えるようになった。「今この人が"財産権"と言うとき、それは歯ブラシのことか、それとも工場——人を支配する力——のことか?」
誰かが「私有財産は神聖だ」と言うとき。誰かが「規制は財産権の侵害だ」と言うとき。立ち止まって、問うてほしい。それは、あなたの歯ブラシを守る話なのか、それとも、誰かが他人を支配する力を守る話なのか。
この二つを見分ける視力を持つこと。それが、「財産」という美しく強力な言葉に、無自覚に頷かされないための、市民の技術である。
そして気づいてほしい。連載を通じて、私たちは同じことを繰り返している。「自由」を二つに割り、「中央銀行」の前提を疑い、そして今「財産」を二つに割った。一つに見えていた言葉を、割って見る。この営みの全体が何を意味するのか?なぜ、これほど多くの言葉が割れ目を抱え、誰かに都合よく使われるのか。その答えは、連載の最後で明かされる。
次はいよいよ、この連載が向かってきた終着点だ。スミス、ケインズ、ロック——なぜ偉大な思想は、必ず誤読されるのか。そして、その読み替えが、いかに私たちの市民生活そのものを静かに歪めているのかを。