このサイトの軸でもある「自由」を語る上で、「リバタリアン(自由主義者)」という言葉が至る所でてくる。 ニュースやネット記事でも、ときどき「リバタリアン」という言葉を見かけるが、なんとなく「規制が嫌いな人」、「政府を小さくしたい人」くらいのイメージはあっても、はっきり説明できる人は少ないと思う。
日本ではまだ馴染みの薄い言葉のようなので、今更ながらリバタリアン何ぞやを、できるだけ簡単に、短くまとめてみた。 (最初に書いておくべきだった。)
一行で言うと
リバタリアンとは——
「個人の自由を最大限に尊重し、国家や権力が個人の生活に口を出すことを嫌う人」
これだけだ。根っこにあるのは「自分のことは自分で決めさせてくれ」という、シンプルで強い感覚である。
「右」とも「左」とも違う
日本人(だけでは無いと思うが)が戸惑うのは、リバタリアンが従来の「右か左か」に収まらないからだと思われる。
普通、政治はこう分けられる。
- 右派(保守):経済は自由に、でも社会のルール(治安、道徳、伝統)は厳しく
- 左派(リベラル):社会のことは自由に、でも経済は政府が管理・再分配
ところがリバタリアンは、両方とも「自由にしろ」と言う。
- 経済も自由に(規制緩和、減税、小さな政府)
- 個人の生き方も自由に(誰と結婚しようが、何を吸おうが、本人の勝手)
つまり「経済は右っぽいのに、社会問題では左っぽい」。だから既存のものさしでは測れず、分かりにくいのだ。
具体的に何を主張するのか
リバタリアンが典型的に言うことを並べると、人物像が見えてくる。
- 税金は安く。政府は小さく
- 規制はできるだけ撤廃せよ
- 個人の自由(薬物、結婚、表現など)に国家は干渉するな
- 戦争や徴兵に反対(国家が個人を犠牲にするから)
- 自分の身体・財産は自分のもの。誰にも侵されない
一言でまとめれば、「他人に迷惑をかけない限り、何をしようが本人の自由。国家はそこに踏み込むな」という考え方だ。
ちょっと身近に感じてみる
抽象的に聞こえるかもしれないが、実は私たちの日常にも、リバタリアン的な感覚は潜んでいる。あるリバタリアン系のポッドキャストで聞いた話。
たとえば、日本のカフェで多くの人が当たり前にやること——席にカバンを置いたまま、トイレに立つ。これは「他人の所有物には手を出さない」という信頼が、社会に深く根付いているからこそできる行為だ。実際、これを見たアメリカのリバタリアンが「個人の所有物がここまで尊重される社会はすばらしい」と賞賛したという話がある。個人の財産を侵さない——リバタリアンが大切にする原則を、日本人は無意識に体現していたわけだ。
もう一つ、アメリカを激しく分断している中絶問題。賛成・反対で国全体が真っ二つになり、政治の最大の争点になっている。だがリバタリアンの反応は、しばしばこうだ。
「これは、国家が法律で一律に決めることではない。当事者や家族が話し合って決めるべきことだ。」
賛成か反対か、という土俵にそもそも乗らない。「国が個人の最も私的な決断に踏み込むこと自体がおかしい」と考える。賛否が泥沼化している問題に対して、この「そもそも国の出る幕じゃない」という発想は、ある種の潔さがある。(ちょっとかっこいいなと。。)
リバタリアンとは、つまりこういう感覚を、生活のあらゆる場面に一貫して適用する人たちなのだ。
たった一つの基本ルール
リバタリアンの思想を支える、シンプルな原則がある。**「非攻撃の原則」**と呼ばれるものだ。
他人の身体や財産に、暴力をふるったり、それを脅しに使ってはならない。
逆に言えば、この一線さえ越えなければ、人は何をしてもいい。麻薬を吸おうが、危険な仕事に就こうが、奇妙な生き方をしようが、他人を傷つけない限り、国家が止める権利はない——これがリバタリアンの発想の核である。
どこまで「小さな政府」にするか
実は、リバタリアンの中にも幅がある。
- 穏健派:警察・国防・裁判所くらいは国家に残す(「最小国家」)
- 過激派:いっそ国家そのものをなくし、警察も裁判も民間に任せろ(「無政府資本主義」)
だから「リバタリアン」とひとくくりにしても、中身はかなり違う。共通しているのは「とにかく国家の役割を減らしたい」という方向性だけだ。
なぜ日本で広まらないのか
日本では、「困ったときは国(お上)が助けてくれる/助けるべき」という感覚が強い。 日本の国民負担率が約46〜48%(江戸時代の年貢「五公五民」とほぼ同じレベル。)という状況で、「自分のことは完全に自分で。国は最小限でいい」というリバタリアンの発想は、やや無理があり、馴染みにくい。
だからこそ、知っておく価値がある。リバタリアンの視点を一つ持つだけで、「この政策は、個人の自由を増やすのか、それとも国家の権限を増やすのか?」という、普段とは違う角度から政治を見られるようになる。
まとめ——それは、あなたの足元にもうあった
リバタリアンとは何か。最後にもう一度、整理しよう。
リバタリアン=個人の自由を最大限に尊重する人
- 経済も自由に(小さな政府)
- 生き方も自由に(国家は干渉するな)
- 基本ルールは「他人を傷つけない限り、何をしてもいい」
- 「右」にも「左」にも収まらない
「遠い外国の、難しい政治思想」に聞こえたかもしれない。だが、ここまで読んで気づいた人もいるはずだ。その感覚は、実は日本人の足元に、とっくに根付いていた。
カフェの席にカバンを置いて——「他人の持ち物は侵さない」という、個人の所有を尊重する感覚。これは右派リバタリアンが何より大切にするものだ。
そしてかつての日本の村。結(ゆい)で労働を融通し合い、入会地(いりあいち)の山林をみんなで分け合い、寄合(よりあい)で物事を決めた——国家の命令でも、誰かの金の力でもなく、人々が自発的に助け合い自分たちのことを自分たちで決める共同体。これは左派リバタリアンが理想とする社会像そのものだ。
(もちろん、村には「村八分」のような同調圧力もあった。共同体の結束が、時に個人の自由を押しつぶす。リバタリアニズムが理想とするのは、あくまで個人の自由を保ったまま助け合う共同体であって、その点では日本の村も完璧ではなかった。)
つまり日本人は、知らないうちに
個人を尊重する感覚(右派リバタリアン的)と共同体で自治し助け合う感覚(左派リバタリアン的)、 その両方を矛盾なく生活の中に抱えてきた。アメリカでは右と左が「個人か、共同体か」で激しく争うものを、日本の社会は当たり前のものとして併せ持っていた。
だからこそ、リバタリアンという視点を知る意味がある。それは、見慣れた日常を、新しい角度から見つめ直すレンズになるからだ。
ある政策やニュースに出会ったとき、こう問うてみてほしい。
- 「これは、個人の自由を増やすのか、それとも国家の権限を増やすのか?」
- 「これは、国が決めるべきことなのか、それとも当事者が決めるべきことなのか?」
賛成するかどうかは、あなたの自由だ。だが、この問いを一つ持つだけで、政治の風景は、確実に違って見えてくる。
リバタリアニズムは、海の向こうの誰かの思想ではない。「自由とは何か」「国家はどこまで、私たちの生活に関わっていいのか」を考えるための、あなた自身の道具なのだ。
おまけ:リバタリアニズムを語る主な人物たち
もっと知りたくなった人のために、代表的な人物をいくつか紹介しておく。リバタリアニズムは一人の思想家が作ったものではなく、何百年にもわたり、多様な人々がそれぞれの角度から「自由とは何か」を考えてきた思想の流れだ。
思想的先駆者
- ジョン・ロック(1632-1704)——「自分の労働を混ぜたものは自分の財産」という、財産権の基礎を作った。右にも左にも読まれる「割れ目」を持つ人物。
- アダム・スミス(1723-1790)——市場の有用性と、権力集中の危険性を両方見ていた。後世に「市場万能論の聖人」に読み替えられた。
左派リバタリアニズムの系譜
- ピョートル・クロポトキン(1842-1921)——『相互扶助論』。人間社会は競争より助け合いで発展してきたと論じた。この記事で触れた日本の「村」の感覚に、思想的に近い。
- ノーム・チョムスキー(1928-)——「リバタリアン社会主義者」を自称。国家だけでなく、企業による「私的な専制」こそを批判する、現代左派リバタリアンの代表格。
右派リバタリアニズムの系譜
- フリードリヒ・ハイエク(1899-1992)——『隷従への道』。国家の計画は自由を蝕むと警告。最小国家とセーフティネットは認める、穏健派。
- ミルトン・フリードマン(1912-2006)——実務派。中央銀行は残すが人間の裁量を奪え、と主張。レーガン・サッチャー時代に影響を与えた。
- マレー・ロスバード(1926-1995)——国家=合法的強盗。中央銀行を完全に廃止し、金本位制に戻れと主張した過激派。ビットコインの思想的源流の一つ。
現代
- ロン・ポール(1935-)——共和党の政治家なのに、戦争反対・FRB廃止を訴えた。「右か左か」の線からはみ出た人物として、この連載の冒頭でも登場した。
- イーロン・マスク(1971-)——「自由意志論者(libertarian)」を自称したことがあるが、立場が一貫せず議論が分かれる。規制批判・言論の自由重視の面で、リバタリアン的な言説を用いる。